1月28日(火曜日)
方法論。
目的達成への道はひとつではなく様々な方法がありそれを論ずること。人の思考は千差万別であり目的へのアプローチ方法をパターン化することは不可能である。何が正解であったかは遠い未来に立ってみないと判別できないことも多々ある。そして未来においても正解が見えないこともあるであろう。
人生で考えてみる。人はそれぞれの夢・希望を持って生きる。それを成就させたいと願いながら生きる。夢に近づく、もしくは到達するための方法論はどれが正解かなんて分かりっこない。ただ経験則から茫洋とではあるが感じるところがある。
人は海原にそっと置かれたヨットなのである。風がなければ帆走出来ないヨットである。経験のない蒼い頃には相当の風があってもうまく捕まえることすら出来ないものである。そして風は凪ぐ。じっと佇んで次に吹く風を待つ。夢を本気で追う意志のある者はその時「冗長に風を待つことは許されぬ。」と考える。そして何故あの時あの風をつかまえられなかったかを思索する。帆の大きさを増そうとする。帆布のほころびがないかと点検をする。更に意識の高い者はそよ風でもいい、それを最大の効果で受ける為にジブ・セールを取り付けて次の風を待つ。そしてその風が来た時には海原に航跡を残しながら究極の夢にほんの少しでも近づいていく。同じ風待ち状況に置かれても自分の持つ帆の面積の事も考えず、帆のほころび点検もせず、「風は自然のものなのだからいつか吹く。」と考え、「自分のヨットはディンギーではあるが、それでもそこそこの性能を備えているのだからきっとその内颯爽と走り出すのだ。」とも考えながら限りある人生の時間を徒に浪費してしまう者もいる。風待ちの時間。待つ身には永遠の時間のようにも感じられるはずだ。後者はそこでふぅふぅと帆に息を吹きかけてみる。帆を揺さぶって風を起こそうともする。そしてそれは現実的には時として後退をも意味するものなのである
そよ風が吹く。両者にどれぐらいの差が出るか。自明の理であろう。
動きたくても動けない。もしくは動かないのが人生である。「自力」は儚く、「他力」は想像を絶するほど強大である。不本意に思えても何らかの縁の許に自分が今置かれている立ち位置。そこでの時間は止まったようにも感じられる絶望の時間かも知れぬ。ただその中で自分をどう研鑽しているのかを「他力」は間違いなく俯瞰している。そして「他力」が置いた縁を能動的に断ちきることは自身を矮小化することに帰結する。因果は必ず応報するのだ。
述べてきたように人生は大方において「他力」である。ただ「自力」の無常さを知りながらも弛まぬ努力を継続する者には「他力」は底知れぬ効果を与える。究極の夢を手にする者は少ない。だがその夢を持った事を悔いることのない人生を歩める者はやはり「自力」における努力を最大限続ける者でありそれ故に「他力」が自分に及ぼうとする瞬間を見逃さぬ者なのであろう。そして夢に到達ならなかったとしても少なくともその生きた証を残すことが出来る者になるはずである。
蛇足ながら、また一方ではなんとかなってしまうのも人生である。この論は故に「自身の生きた証」を残そうとする者にのみ向けられたものである。
羽田徹。 上記にはない自分なりの方法論で再度「夢」を掴む為に本日我が社を去った。
ー檄ー
羽田よ、寺平の「論」を実践で叩き壊すのだ、何があっても・・・・
期待している。
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